地域文化の旅人(まなびびと)

旅先の地域文化の魅力を発見する

ノーサイド精神の聖地・高野山

 今回の旅の最初の訪問地は高野山奥の院でした。高野山奥の院と言えば、訪れてまず驚くのは、天下人や大企業の創始者や企業のメンバーのためのお墓や拝所が林立している光景ではないかと思います。一見すると、それはまるで、高野山とは、権力者や大金持ちの個人や組織のための霊場といわんばかりのものに見えます。

 ではそれは一般庶民の人たちにとってどのような意味を有しているものなのでしょうか。自分たちも、いつかはそうした身分にのしあがりたいという憧れを抱かせるというところに意味があるというのでしょうか。

 今回の旅で、実際に高野山奥の院墓所空間を歩いたことで気づいたことは、結論から言えば、ラグビー競技で言われている「ノーサイドの精神」が溢れているところ=高野山なのではないかということでした。その象徴となるのが、本能寺の変における織田信長さんの墓と、謀反をおこした明智光秀さんの墓が同じ霊場の空間に築かれているという光景ではないかと思います。

 ノーサイドの精神と言えば、ラグビーゲーム終了後は、敵も味方も、そして勝者も敗者も区別なく、ともにゲームを戦ったもの同士、お互いの健闘を称え合い、交流をエンジョイする精神と言われています。まさしく、人間社会も、社会思想家のホップスさんによれば、万人の万人に対する戦いというゲームの世界です。すなわち、この世の、しかも世界中の人たちは、みな、その人生ゲームの出場者たちなのです。死とは、それら人生ゲームの、個々の出場者の、そうした人生ゲームを終えることなのではないかと思います。

 しかも、高野山奥の院を歩いている中で、高野山が庶民的性格を示している光景にも出会いました。それは、かつて庶民生活の中に仏教を広めようとした法然さんや親鸞さんのお墓があったことです。さらに、高野山奥の院参拝のガイドさんによれば、高野山で発掘された無縁仏のお墓がピラミッド型に積まれた小さな小山もあったのです。実際に高野山にいったことで、そうした無縁仏の塚が存在していることを初めてしりました。それで、実際、高野山を訪れてみてよかったなという実感をもてました。

         

                      

 闇バイトの横行などに象徴される現在の世相を見ていると、現在の世の中は、相当程度世情が乱れている、無秩序になりつつあるという実感がわいてきます。拝金主義、暴力による他者支配、そしてそうした手段を択ばない人生ゲームにおける勝者だけが報われるという世界になりつつあるように感じます。そうした世情の中で、高野山の風景は、死後の世界とはいえ、すべての人が死後仏となって自然に還り、あらゆる区別と差別から自由になり、深閑とした森の中で等しくノーサイドの精神にあふれる暮らしをしている生活世界としての光を世界中に放っている風景のように思えます。

 奥の院参拝の際のガイドさんも、高野山は、宗教・宗派の違いを問わず、すべての人の願いと祈りを受け入れ、等しくご利益をさずけてくれるところであると紹介していました。生きている間には、さまざまな事情で、高野山を参拝したくてもできないまま死をむかえる人たちも数多く存在していることでしょう。また、高野山の存在自体知らないか、知っていたとしても信じていない人たちも多く存在していることでしょう。しかし、そうした人たちも含めて、すべての人は、その死後には、その霊魂が仏となり、高野山にワープしてくるのではないかと感じられたのです。それは、高野山では、弘法大師空海さんが、その死後も日々絶えることなくこの世のすべての人たちの生活の安寧と平和を願って祈りをささげているところであり、人は皆その死後にはその死を経験することで、空海さんの祈りに唱和する純粋仏心者へと変身していく存在ではないかと感じるからです。それが死とは自然に還るということの意味なのではないか、そのことをはじめて高野山の地にきて気づきました。

 

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お寺や神社を旅する魅力とは

 今回の旅は、高野山熊野三山、そして伊勢神宮をめぐる旅でしたが、そもそもお寺や神社が観光の対象となるのにはどのような魅力があるのでしょうか。私たちの旅の目的が自分自身および自分たちの家族の安寧と平和を祈るというものでしたので、何かを祈るという視点でその魅力を考えてみたいと思います。

 その際、魅力というのは、単に瞬間的な流行というのではなく、世代をこえて末永く多くの人から愛されるにはどのような要素が大切となるのだろうかという点を考慮してその考察をしてみたいと思います。その点に関しては、日本中を旅して日本の生活文化のあり方を探究した民俗学者宮本常一さんの、日本人は決して古いものや伝統的なものを、無条件で大事にし、世代をこえて残そうとはしてこなかったという指摘を参考にしようと思います。少々長い引用となるのですが、今後もその指摘を参照しながら旅で出会うさまざまなものの魅力を考えていくのに大いに参考になることから、煩を厭わず引用することにしたいと思います。宮本さんは、論じます、

 「いま日本の美術全集をひろげてみると、奈良から鎌倉へかけての絵画、彫刻、建築のほとんどは仏教関係のものである。絵画といえば仏画、彫刻といえば仏像、建築といえば仏寺である。これらのものは過去にあったものではなく、現在残存しているものである。ところで奈良、平安、鎌倉の各時代にあって仏寺だけが栄、仏寺のみが全国にみちみちていたいたわけではない。京には貴族たちの邸宅がたちならび、地方には豪族の家も多かったはずである。それらの邸宅の中に所蔵された絵画、彫刻、調度品なども多かったはずである。多かったはずというようなものではなく、仏寺にくらべれば圧倒的な量にのぼっていたはずであるが、それらのものはほとんど残っていない。せめて当時の住居の一つぐらいは残っていてもよさそうなものであるが、邸址すらあきらかなものはほとんどない。つまり貴族や民衆の有形文化は跡かたもなく地上から消え去ってしまっている。実によく消え去ったものだと私(宮本常一さん)はひそかに驚嘆している。日本人は伝統を尊ぶ民族だといわれているが、実際には自分たちの生活の中できずきあげて来た有形文化をのこそうとはしなかった」〔( )内は引用者によるものです。〕。

 「そうした中にあって仏教文化だけは多くのものがのこされた。それは民衆が仏教を支持し、まもっていたからにほかならない。貴族文化は自らが世に誇るものであっても民衆はこれを支持しなかった。民衆の支持のないものは残存のしようがないのである」。

 「仏教文化を築きあげたものは偉大であったであろうが、これを保持したものはもっと偉大であった。そして他のすべてのものをほろぼし去ってしまってもなお古い仏寺を守りつづけた民衆の執念に似た情熱こそは、再検討していいのではなかろうか。同時にそこに日本の民衆がほんとうに何をもとめ、何を守って来たかをさぐりあてることができるように思う」とです。

                

 この宮本さんの日本社会における生活文化継承に関する議論を読んでいて、おもわず現在NHKで放映されている大河ドラマ「光る君へ」を思いうかべてしまいました。まさしく、そのドラマは、宮本さんが議論していた時代に関するものです。ときの最高権力者が主役のドラマとも言ってよいのではないかと思います。そのドラマを見ながら、あらためて宮本さんの指摘をかみしめています。確かに、日本社会の何世代にもわたる長い歴史の中では、「民衆の支持のないものは残存のしようがない」のだということがそれです。

 一方次のような問いも心の中に浮かんできます。それは、一つは、仏教文化はなぜこれまで長い歴史を通して民衆から支持され、さらに現在なお庶民から支持されているのだろうかという問いです。二つ目は、そうした民衆から支持されつづけている生活文化は、仏教文化以外にはないのだろうかという問いです。日本の民衆は、果たして、宮本さんが言うように、「実際には自分たちの生活の中できずきあげて来た有形文化をのこそうとしなかった」のでしょうか。残してきた有形文化というものも少なからず存在しているのではないか、それはどのようなもので、どのような理由と人々の努力の中で残ってきたのか、また人々は残そうとしてきたのか探究してみたくなりました。

 

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伊勢うどん、赤福のあんもち、返馬もち

 めはりずしだけでなく、今回の旅でぜひ体験したいと考えていた食は、お伊勢参りと関係する、伊勢うどん赤福のあんもち、返馬もちでした。それらは全国的にも有名で、あらためてここで記す必要はないのではないかと思います。ただ、返馬もちに関しては、私たちにとってはあまりなじみのなかったおかしでした。今回の旅で、はじめてそれはどのようなものか、調べてみようという気になったのです。

 今ではそうしたとき、インターネットで簡単に調べることができます。非常に便利になったという感慨もひとしおです。早速インターネットで調べて、かつて伊勢神宮に参るには、必ず「宮川の渡し」で、川を渡らなければならなかったのです。そして、この渡し場より先は、一切の動物の立ち入りが禁じられており、馬で旅してきた参拝者たちすべてが馬を降り、乗ってきた馬を返さなければならなかったそうなのです。

 「へんば餅は、この馬を返す場所=返馬所(へんばじょ)の近くで食べられたことが由来となり、返馬(へんば)餅と言われるようになったと伝えられてい」るのです。インターネットの記事に、そうした「当時の歴史がそのまま商品名となったちょっと珍しい餅菓子です」とありました。この餅菓子を食べることで、お伊勢参りの歴史を感じることができればと、がぜん興味がわいたのです。

 また、インターネットには、へんば餅屋さんの本店にある「へんば餅由来」の立て看板も掲載されており、その記述の最後に、「へんばや主人」のことばとして、「美味とは申しませんが、風情ある田舎の名物としてご賞味願い上げます」とありました。その美味ではないということばを目にしたことで、逆にどんな味か食べてみたいという気持ちにさせてくれました。そう言えば、北欧のある国では、世界中で一番まずいお菓子というキャッチフレーズで、ぜひ食べてみたいという気持ちにさせる、逆手をとった宣伝のためのキャッチフレーズがあったと記憶しています。「むかしの旅の風情を感じる」ことのできるお菓子、なんと素敵なお菓子なのではないかと思いました。

 伊勢うどん

 伊勢神宮内宮参拝後、おかげ横丁に移動し、最初に食べたのが、伊勢うどんでした。注文し、お店のテーブルについてすぐに運ばれ食べることができました。シンプルだけど、奥深い味を堪能できました。次々と訪れるお客に、これも次々と運どんが運ばれてくる風景を見ていると、いかにお伊勢参りが人気なのか、あらためて感じることができました。

                       

 赤福のあんもち

 次に食べたのが、有名な赤福のあんもちでした。今回の旅行前に、もしかしたらあまりにもお客が多いので長時間またなければならないと言われて、短い昼食休息の時間内には食べられないかもしれないと思っていたのですが、今回はすぐに店内に入り、食べることができました。いつもはテレビで見るだけの風情の中で食べることができ、貴重な体験でした。

           

 返馬もち

 返馬もちのお店に行くと、まず馬のオブジェが迎えてくれました。イートインの空間も素敵で、旅行の疲れをいやしながらゆったりとしたときを過ごすことができました。「美味ではないかもしれない」という本店店主のことばとはちがって、あますぎず、非常に美味しいお菓子でした。日持ちもすることから、お土産用にも買い求めました。

             

              

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めはりずしを楽しむ

 今年の10月初め、仲間二人で、ある旅行代理店の提供する高野山熊野三山、そして伊勢神宮を巡るツアーに参加しました。旅好きの人にとっては、旅行代理店によって企画されたツアーは、訪問先や日程が定められており、あまり自由がなく、偶然の出会いや交流を期待できないことで、魅力のとぼしいものとなるのかもしれません。しかし、その旅行の形は、旅行の目的が決まっており、より少ない費用で、短期のうちに、自分たちだけではとうてい回り切れない旅程をカバーしてくれる点で便利であることが大きな魅力です。しかも、その旅行のための準備が大きく節約できます。私たちの今回の旅の目的は、これまで一度もいったことのない、日本屈指のパワースポットを巡り、自分たち自身と家族生活の安寧と平和を祈ることでした。さらに、限られた旅程の中でも、旅行先の地域の気候風土や生活文化にねざした食を楽しめればと期待していました。

           

             (高野山奥之院の芭蕉の句)

 日常の生活の中から誕生し、現在もなお生活の中に根づいている食を体験することは、旅の醍醐味です。今回の旅では、めはりずしとお伊勢参りの旅人にとっての伝統食である伊勢うどん赤福のあんもち、そして返馬もちを食べることができればと願っていました。企画課された旅行では、前もってすべての食事も用意されていることも多いのですが、今回のツアーでは、初日の夕食と次の日の昼食、そして最終日の昼食がフリーとなっており、そのときがチャンスだと考えていたのです。

 何を食べるかについては、なるべく自分たちにとって既知のものではなく、旅行先が決まったと後に調べることではじめて知ったものにすることにしていました。また、定番のものであっても、これまで体験していないものを、しかも現地で体験しようということで選びました。

 めはりずしに関しては、今回の旅行をきっかけとしてはじめて知った食でした。インターネットのウィキペディアに、「和歌山県三重県にまたがる熊野地方、および奈良県吉野郡を中心とした吉野の郷土料理」とあったことから、今回の旅行にふさわしい食ではないかということで選んだのです。

 めはりずしは、「高菜の浅漬けの葉でくるんだ弁当用のおにぎり」とありました。名前の由来に関しては、「目を見張るほど美味しい」という説もあるということでそれも魅力でした。また、かつて日常の海、山、そして畑仕事の合間に手軽に食べられる食として愛されてきたようで、地域に根づいた食として今回の旅にふさわしいとも感じたのです。さらに和歌山県の南部地域では、日影が多くなる山地でも栽培しやすい高菜の産地であったことからこの食が発展してきたことを知り、山間部のパワースポット巡りの食としても魅力だったのです。

 今回の旅では、二日目に立ち寄った道の駅の総菜コーナーで買い求めることができました。また、熊野本宮大社を訪ねる三日目の行程では、昼食は用意されていたのですが、その膳の中にめはりずしもあり、あらためてめはりずしが地域の味を旅行客に提供する郷土食なのだなと知ったのです。お陰で、旅の魅力の一つである郷土食を十分に堪能することができました。

 

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新たな「お遍路」旅の芽生えに出会う

 宮城県岩沼市にある千年の丘希望交流センターを訪問した際、「交流センター」がある相野釜公園内の1~3号の希望の丘を巡る散策をしました。1号丘では、現在の海岸線の眺望を楽しむことができました。そして、2号丘では、仙台空港を発着する飛行機と飛行場の風景を観察することができました。この公園内では、一番南側に建設されている3号丘では、この付近の海岸線および「玉浦希望ライン」と命名されたかさ上げ道路周辺の復興の様子を360度見渡せたのです。三つの丘を結ぶ散策路も整備され、植樹さ れた樹木の中を通りながら適度な運動のためのウォーキングを楽しむことができました。野鳥のさえずりの声も聞こえてきました。

                 

 その散策の中で、「東北お遍路巡礼地」と刻まれた石柱に出会ったのです。この石柱に興味を持ち、自宅に戻ったあと、どのような経緯で建設されたのかインターネットで調べてみました。そして、現在、大震災で大きな被害を被った東北の沿岸地域で新たなお遍路の旅文化を創造しようとするプロジェクトがあることを知りました。そのプロジェクトを主唱しているのが、(―社)東北お遍路プロジェクトです。

 そのホームページによると、大震災の年の2011年9月、青森・岩手・宮城・福島県の有志により「震災巡礼東北を考える会」が結成され、次の年、2012年12月に、(―社)東北お遍路プロジェクトが設立されたとのことでした。その設立目的は、大震災で甚大な被害を被った諸地域が、「千年後までも経済的・文化的に自立発展できる復興の一助となるような」諸活動を実施して行くというものです。その活動の柱として、お遍路巡礼地を選定し、選定された地にその「標柱」を建設することだったのです。私が岩沼市の千年希望が丘交流センターを訪問して出会った写真にある標柱はその中のひとつだったのですね。

 日本におけるお遍路は、単に信仰上の修行旅というだけでなく、一般的な観光をも目的とするかなり幅広い目的で全国にある霊場を巡る旅なのではないかと思います。その中には、自分の人生の中でさまざまな大きな問題を抱えるようになってしまった人や大きな挫折を経験しもう一度生まれ変わりたいと自分を見つめ直し、自分に向き合い、そして自分の再生を図るために霊場を巡る旅という形のお遍路旅もあるのではないかと思います。

 今回出会った新たなお遍路プロジェクトは、さらに2011年の東日本大震災によって被害を受けた人たちや地域への慰霊と鎮魂、そしてその記憶や教訓を千年先にまでも伝承するという意義が加わったものとなっているのです。そのこと自身、ひとつの大切な千年先の世界を見通した地域づくりであると言えるのではないでしょうか。

 個人的な期待かもしれませんが、そうした意義を持っている今回出会った東北お遍路巡礼の旅は、かつてのお遍路旅がそうであったように、徒歩による旅という文化も再生されて行くことにつながって行けば素晴らしいなと考えています。

 文明的な交通手段が宇宙を目指すまでに発達を遂げている現在でもなお、歩くことによる旅は、世界中で見直されつつあるのではないかと思います。ある定められた、そしてかなりの距離のコースを、ひたすら歩き通すことだけを目的とする旅の形は、むしろ現代文明が発達すればするほど、その反動として、自己を見つめ、自己と向き合い、そして自分の再生を果たしていくための一つの道として、魅力に満ちたものとなってきているのではないかと感じます。

 幸いなことに、現在、上記の東北お遍路巡礼の旅のプロジェクトと重なる形で、「みちのく潮風トレイル」という旅のプロジェクトが展開されています。今回訪問した千年希望の丘交流センターに、「宮城オルレフェア2024」のチラシが置いてありました。そして、そのチラシには、その「みちのく潮風トレイル」の旅への招待が、次のように綴られています。すなわち、

 「みちのく潮風トレイルは、青森県八戸市蕪島から福島県相馬市松川浦まで4県29市町村の海岸線を中心に設定された「歩いて旅をするための道」です。全長1,000キロを超えるこのトレイルの特徴は、東北太平洋沿岸ならではのダイナミックな海、川、里、森と連続する美しい景観です。自然と共にある人々の暮らし、積み重ねられた歴史・文化は、厳しくも豊かな自然の恵みと重なり合いながらいまに繋がっています。歩く中で生まれる人と人との温かな交流もこの道の大きな魅力の一つです。ぜひ東北の歩く旅へ」というようにです。

 「歩く中で生まれる人と人との温かい交流」という言葉に魅力を感じます。東日本大震災で被害に遭われた人たちや諸地域への鎮魂と慰霊、そして再生と旅する人自身の自己探求と自己再生を、時間をかけ、訪れた先々での交流を通して願い、祈りを共有化する旅文化の発展を望みたいと思います。

 

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語り部という形の学び

 この記事は、前回の「岩沼市千年希望の丘交流センター」を訪れた時の記事の続きです。この施設を訪れたことで、ここでは、千年先の未来世界を見通した「千年希望の丘」づくりという地域づくりに取り組んでいることを知りました。そこでいただいたパンフレットには、「千年希望の丘」は、「東日本大震災の悲劇を風化させることなく、鎮魂・記録・希望を感じて未来へつなぐ場所です」と紹介されていました。また、そのための活動として、語り部活動に取り組んでいることも知りました。

                                                                                                 

 東日本大震災を経験し、その悲劇的な出来事に向き合ってきた生活の記憶を千年先の未来世界につなぐ役割を担おうとしているのが語り部という活動です。同じパンフレットに、「千年先まで震災の記録や教訓を伝えるための取り組みを継続していくことが大切です」と記されていました。語り部という活動はその取り組みの中心的なものだと言えるでしょう。しかも、この語り部という活動は今回訪れた施設だけでなく、大震災後誕生したその伝承施設や震災遺構でも実施されている活動です。東北地方全体で、震災の記憶が長く語り継がれる、それは、これからも多くの自然災害と向き合わなければならない日本社会の中でなくてはならない貴重な学びの場となっていくことでしょう。

 この「千年希望の丘交流センター」での語り部活動の現状について、岩沼市市民活動センターの情報紙である『なかま』の第28号(2024.3.1発行)が紹介しています。その紹介文によると、この施設の語り部活動は、大震災後の岩沼市による「岩沼震災語り部研究会」を契機として発足しています。当初、そのメンバーは、その研修会参加者から名乗りを上げた3名だったそうです。

 そして、「平成28年4月、相野釜公園に千年希望の丘交流センターが開所したことで、県内外から見学者が増え、『語り部ガイド』への依頼も多くなり、語り部現地見学会などを開催して、ボランティアメンバーを募集してきた」のです。その後、新型コロナ騒動などで活動を休止せざるを得ない時期もあったそうですが、現在活動は再開され、メンバーも5名に増えているとのことです。

 その「いわぬま震災語り部の会」は、見学者たちに、「そなえよ!つねに」、「自分のいのちは自分で守る」という言葉を伝えることを使命として活動しています。そして、「現在は、見学者のガイド対応だけでなく、会主催の親子防災学習事業なども開催し、震災経験を経験していない世代への伝達活動も推進している」のです。

 まさしく、語り部という学びは、交流と体験を通してこれから時として牙をむくことがある自然とどう向き合ったらといか、そして自然との関係でこれからどのように生活して行ったらよいかを学ぶ大切な機会を提供していることをあらためて確認することができました。しかも、この施設での語り部活動をしている会員には、10代や30代の若い会員の方もいると、先に参照した「なかま」という情報紙に紹介されていました。若い世代が語り部活動に参加している、持続的な継承と伝承の活動にとって期待が持てるように感じます。

 またその点に関わって、訪問時、そうした伝承活動は「語り部の会」だけでなく、地元の学校教育の中でも取り組まれていることを紹介する展示がされていました。その中には、ある地元の高校生が、他の地域からの修学旅行生を受け入れ、交流する中で大震災の経験を伝える取り組みも紹介されていました。そうした活動がこれからも取り組まれ続けて行くことを期待したいと思います。またそうした活動に未来社会の希望を託したいと思います。

 

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千年先の未来世界のことを考えた地域づくりへの出会い

 観光とは必ずしも宿泊を伴った遠方への旅でなくてもよいのではないかと思います。自分の長い人生にとって糧となり、宝(光)となるものを求めて地域移動することを広い意味で観光と捉えるなら、自分が住んでいる身近な地域や施設への訪問も観光だと考えます。その意味で、たとえそれが近距離の地への、自己探求のための地域移動(旅)であっても、その旅は観光の一つの形であると言えるでしょう。

 私の場合は、もちろん美しい自然風景や各地の名所旧跡を訪ねることも観光の目的ですが、また現在の学校の教室の中での教育・学習の形とは異なる性格と形を持つ教育・学習との出会いを求める旅も観光の目的になっています。その一環として、最近、宮城県岩沼市の「千年希望の丘交流センター」という2011.3.11の東日本大震災の伝承施設を訪れました。それは、現在の世の中の動きを見ていると、地域の人々が、とくに戦争と自然災害にどのように向き合ってきたか、その生活の記憶を保全し、次の世代に継承して行くことが非常に大切になってきていると感じるからです。

 

            

 

 この施設は2011.3.11の大震災の時、大きな被害を受けた岩沼市の地域(現在相野釜公園になっています)の中に設立された施設です。その施設は、現在、「震災の記録・記憶の伝承と未来へつながる防災学習や植樹・育樹、環境保全活動の拠点」(「岩沼市千年希望の丘交流センター」パンフレット)となっています。すなわち、この施設は、この地域の千年先の未来世界を考えた地域づくりの拠点でもあるのです。その内容は、「希望の丘」と名づけられたその地域づくりの象徴であり、震災のメモリアル施設ともなる小さな山に植樹するとともに、この地域を通っているかさ上げによって再生された道路を緑の堤回廊として行く活動を、千年かけて積み重ねていくというものです。

 その際、課題となるのは、千年という人の一生からすれば非常に長期に渡る未来に向けての歴史的時間、どのようにしてその地域づくりの思いや精神を継承して行くのかということではないかと考えます。千年の丘交流センターではどのようにその継承を実現しようとして行くのか、大いに興味が湧きます。

 その点に関して、私が訪問したとき、たまたま「失ったものを思い続け」――「私たちは忘れない」という展示がされていました。そしてその展示の一つに、「今も鮮明に覚えているおむすびのぬくもり」という大震災時の記憶があったのです。その展示物には、次のような文章が添えられていました。それは、

 「避難所での夜/終わりの見えない恐怖に/不安でいっぱいな心を/支えてくれたのは/ほんのりと温かく/小さなおむすび。」

 「多くの人に行き渡るように。/子供も食べやすいように。/少しでも身体が温まるように。」

「手にしたおむすびには/そんなたくさんの思いが込められていました。」

「自分のいのちを支え/誰かの命を支えるごはん。/からだはもちろん/心にも栄養を運びます。」という文章でした。

大震災では、確かに「失った」ものも膨大なものがあったでしょう。しかし、同時にそうした大震災時に、多くのものを失ってしまった人の心を支え、前向きにその困難をのり越えようとする気持ちを支えた、これも多くの人たちの心からの活動も存在していたことを、この展示から知ることができました。どうかその時の心が千年先の未来世界にまで伝わるようにと心をこめて願うばかりです。

 

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